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日本におけるサンマ漁業の歴史

日本の食卓に欠かせない秋の味覚、サンマ。その歴史は1700年代まで遡ります。

江戸時代初期から現代に至るまで、サンマ漁業はどのように発展し、私たちの身近な食材となったのでしょうか?

江戸時代初期、さんまは下魚扱いで猫またぎと呼ばれていました

現代では美味しい秋の味覚として秋刀魚の塩焼きやサンマご飯などなど

いろいろな料理で親しまれていますが昔は違ったようです。


1. 旋網(サイラ大網)時代 — 1700年代(江戸時代初期)

サンマ漁業は1700年頃、熊野灘で始まりました。当時、サンマは沖合を回遊していたため効率的な漁法がなく、なかなか漁獲が難しい魚でした。

しかし、サイラ大網(旋網)が発明され、サンマ漁業は紀州沿岸で定着・発達します。

 

 

この漁法はその後、房総半島(外房)や伊豆沿岸にも技術移転され、江戸時代後期にはこれらの地域でもサンマ漁が盛んになりました。

大量に漁獲された脂ののった旬のサンマが江戸に運ばれるようになり、庶民の味として一気に広まります。有名な落語「目黒のさんま」もこの時代背景を描いています。

 

 

しかし、江戸時代初期のサンマは「下魚(げざかな)」とされ、価値が低いと考えられていました。

脂が少なく傷みやすいため、猫またぎ(猫ですらまたいで食べない)と揶揄されることもありました。

 

このような評価が変わったのは、漁法の発達と流通網の整備によって新鮮なサンマが大量に供給されるようになったからです。

旋網によるサンマ漁業は約200年間続き、明治時代まで日本の主要な漁業の一つでした。

 


2. 流刺網(ながしさしあみ)時代 — 明治末期~大正時代

明治末期になると、漁獲効率の良い流刺網が開発され、旋網に取って代わるようになります。

この漁法の特徴は、動力化・大型化した漁船によって沖合操業が可能になったことです。

 

 

これにより、サンマ漁は沿岸漁業から沖合漁業へと大きく変貌し、より大量にサンマを漁獲できるようになりました。

日本の食文化がより豊かになっていく中で、サンマは庶民の生活に密着した存在へと変わっていきます。


3. 棒受網(ぼううけあみ)時代 — 戦後(1940年代以降)

第二次世界大戦後、漁法はさらに進化を遂げ、棒受網が主流となりました。

この漁法は、火光(ライト)を利用してサンマを網に誘導する方法です。

 

  • 撒き餌不要:漁具が簡素化され、操作も容易。
  • 魚体に傷がつかない:漁獲後の品質が高いまま保たれる。
  • 漁獲効率が著しく向上:短時間で大量に漁獲可能。

具体的には、魚群探知機でサンマの群れを探知し、集魚灯を右側から左側へ順次切り替えながら網に誘導する方法が用いられています。

この方法は現在でも主流です。

 

 


4. 北海道のサンマ漁業の発展

北海道におけるサンマ漁業は、明治時代末期に日本海で手づかみ漁業として始まりました。

その後、1920年代にはオホーツク海で定置網漁業が行われるようになり、1948年には棒受網漁業が導入されました。

 

 

1947年からは、えりも岬以東の太平洋で棒受網漁が開始され、北海道道東は全国一のサンマ産地へと成長しました。

この地域で漁獲された新鮮なサンマは、日本全国へと広がり、現在も多くの人々に親しまれています。


5. 結論

サンマ漁業は、1700年代の旋網時代から始まり、明治期の流刺網、戦後の棒受網へと進化してきました。

その歴史は日本の技術革新と流通網の発達、そして庶民の味覚の変化と深く結びついています。

秋の味覚として愛されるサンマは、数世紀にわたる漁業の発展と日本人の工夫の結晶と言えるでしょう。

 

ではでは(^ω^)ノシ

 

 

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