合理主義といっても立場や価値観によって変わる。
知ってる情報から判断するしかないし人にはそれぞれ目的というやつがある。
目的が違えば合理性も多様になる。
みんなが幸せになるために合理的な行動をするとか
組織を守るために合理的な行動をするとか
お金を稼ぐために合理的な行動をする。
それぞれにスタートがありゴールがある。
一見、非合理に見えてそれは公共の利益にならないだけで特定の人物が利益を得る事だってある。
例、御神木を切るか切らないか?
例えばの話でとある地域に大きな御神木があったとします。
ところが御神木がある場所に高速道路を通したい。
高速道路を通すことで公共の利益にもなるし国益にもなる。
道ができれば物流も良くなるし観光地として発展できるかもしれない。
実に合理的な主張である。
しかし、反対派というのも当然いる。
長い年月を重ね、いくつもの逸話や伝承がある御神木を切るというのは逸話や伝承の検証が出来ないし、実物があるから物語は語り継がれる。
何より貴重な観光資源を切るなんてとんでもないという訳です。
短期的に見れば御神木を切って高速道路を通すのが良いかもしれない。
ただ、御神木を観光資源と見た場合や歴史的な遺産と考えた場合は失う事が大きな損失になる。
100年後の発展や100年前の検証を考えて理にかなった選択とはどういうものなんだろう。
一見、非合理に見えても
一見、非合理に見えてもそれは目的が違うからかもしれない。
お金儲けをするための行動と気持ちよく生きるための行動には大きな違いがある。
立場や目的、守りたいものが違えば合理性も変わる。
例えばボクサーがパンチをもらっても目を閉じないように訓練するという話を聞いた事がある。
試合に勝つためには必要な事であり目をつぶらず次の攻撃に備えるため目をつぶらないというのは合理的に思えます。
しかし、殴られた時に反射的に目を閉じてしまうのは眼球を守るためです。
目に異物が入らないように目をガードする。
目を守るという行為だと思えば実に理にかなっている。
どっちがより合理性があるかではなくそもそも、目的が違う。
目的が違うからこそ多様性があると思う。
他人から見たら非合理に見えるかもしれないけどそこにはロジックがちゃんとある場合が多い。
もちろん、感情だけで行動している人もいるけど、得をするために合理的な思考というのは必要不可欠だ。
持ってる情報が違う
持っている情報が違うと判断も変わる。
話を御神木に戻して説明すると
御神木を切って高速道路を通したい派からすれば高速道路を通す事での経済効果は1000億円以上
だから御神木を切りたい。
御神木を切るのに反対という派閥は御神木とその近辺にある森の根っこが地域の地盤を支えている
御神木と森を切り開くと大雨で土砂崩れが起きたりする可能性がある。
こう考えると経済的な利益よりも土砂崩れのような危険性があるのだから切りたくないという話になる。
持ってる情報によって判断は当然変わる。
合理的な判断だと思っていても知らないデータがあるなら間違った判断になる。
立場が違う
立場が違えば合理的な行動というのは変わる。
例えば、財務省の官僚が増税ばかりを言うのはどう考えても非合理です。
国益にはならない、今はデフレだから減税をしなきゃいけない
なのに国民から見たら非常に非合理な行動をしている。
では、財務省の官僚は合理的に動いていないという事ではなく。
自分たちの組織を維持したり組織の中で出世するための行動をしているに過ぎない。
国益よりも省庁の維持や既得権益を守るために合理的な判断をくだしていると考えれば
増税ばかりを主張するのはその方が出世できるからであり、増税すれば財務省の権限が強くなるという判断なのかもしれません。
あくまでも憶測で話しましたが
じゃないと説明ができない。
まとめ
合理的とか言っても
- 立場
- 目的
が変われば正解が変わってしまう事があり得る。
例を上げればそんな話はたくさんある、例えば国は医者を増やしたいから学校を作ろうとする。
医者の組合は医者が増えすぎると診察料が安くなるから妨害し自分の権利を守ろうとする。
社会の利益と個人の利益によって合理的な判断というのは変わってしまう。
経済的な合理性と一口に言っても道を作った方がいいのか?それとも観光名所にした方がいいのか?
意見は分かれる。
そういう細かい部分をきちんと話し合わないと合理性と合理性のぶつかりあいって解決しない気がする。
一見すると合理的に見える判断でも情報不足であったならそれは非合理的なものになってしまう。
こういう複雑な判断が必要だから合理性を重視するというのは難しい
合理主義者が嫌われる要因って複雑な選択肢を無視してしまう事にある。
っと筆者は思う。
そう考えると温故知新ってすごく合理的だよね
ではでは(^ω^)ノシ