新選組と言えば浅葱色の羽織が有名です。
しかし、実際にその羽織をユニフォームのように着ていたかというとそうでもないらしい
我々がイメージする羽織というのを仕立てた事はあるけれど・・・・・
という事なのだとか
実際に仕立てた
文久3年2月、近藤勇、土方歳三、沖田総司の3人は京都に上り壬生浪士組として活動します。
当時は冬の寒い時期だったので当然、冬服しか持っていなかった
長丁場になると感じた彼らは夏服を仕立てた。
その数、20数名分
仕立てた着物というのが有名な羽織というわけです。
デザインは永倉新八が麻の羽織、色はアサギ地で袖に忠臣蔵のようなダンダラ筋を染め抜いたもの
ダンダラというのはお芝居、忠臣蔵で着られている衣装の事
山形が連続するようなデザインの事を言います。
近藤勇が忠臣蔵オタクだったからこういうデザインにしたという説もあります。
ダンダラ模様の「浅葱色の羽織」が人前に大々的に披露されたのは、文久3年(1863)4月21日の将軍を京都から大阪まで護送する際でした。
浅葱色には田舎者の色という意味や死に装束という意味もありわざとそういう格好をしたという説もありますね
羽織ダサすぎ問題
この羽織ですがお芝居の忠臣蔵で使われる衣装に似せたため
当時の人からするとコスプレ感があったという問題もある
後、色がやたらと明るめ、浅葱色という明るい青緑色という色
この色を採用した理由は明確になってはいません。
一説には中国の故事。碧血にちなんでいるという説ですね
忠義のために死んだ人の血は3年経つと碧玉になる
から転じて
切腹の装束に使う色であった
という中国の故事にある碧血(へきけつ)の色が浅葱色だから説が有力
とはいえ、浅葱色というのは当時、田舎の武士が汚れが目立たないという理由で
着物の裏地に使っていたという色
また、目撃者の情報によるとネズミ色と表現されている事から薄い浅葱色
水浅葱色と呼ばれる色だったと言われています。
後のメンバーが着てないのはダサすぎたからというのもあるのかもしれません。
初期メンバーしか持っていなかった
お揃いの羽織を作ったのは壬生浪士組のメンバー20数名だけであり
それ以降のメンバーには作っていない
着ていた時期も目撃情報から文久3年の夏に限定されるそうです。
新選組の名前になってからは翌年の元治元年、池田屋事件で着ていたという研究資料を最後に
羽織に対する言及はありません。
その後のユニフォーム
浅葱色の羽織というのは廃れてしまいその後のユニフォームは黒衣・黒袴だったようです。
新選組に狙われた大村藩士渡辺昇の記述によると
「尾行者の黒衣・黒袴という服装からすぐに新選組であることが分かった。」
とはいえ、みんな思い思いの格好をしていたようです。
近藤勇・土方歳三に関しては、「仙台平の袴をつけ、黒紋付を着ていた」(稗田利八)、あるいは近藤が「よく皮色の木綿羽織を着て、袴は小倉だった」(八木為三郎)
という証言も残っているし、鎖帷子・小具足・胴・鉢金などを装備している者もいた
まとめ
浅葱色の羽織というのは新選組の羽織として有名ですが
実際に着ていたの文久3年から元治元年の池田屋事件まで
いろいろ意味を込めて作ったけど、当時のファッションセンスからするとダサかった
後の羽織は黒い羽織に黒袴という風に変化したのは当然の流れかもしれませんね
ではでは(^ω^)ノシ
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