七夕祭りは彦星と織姫が1年に一回出会うとされているお祭りで
笹に願い事を書いた短冊を吊るす行事です。
しかし、七夕って漢字の読み方は訓読み音読みでもない
ナナをタナとも読まないし夕(ゆうorせき)をバタとは読まない
明らかに漢字の読み方が合わない
元々は棚機
七夕ではなく棚機と昔は呼ばれていました
七夕は中国から伝わった行事、だから織姫とか彦星の格好が日本っぽくないわけです。
天帝とかも日本じゃ使わない言葉だし
日本では7月7日は選ばれた乙女が着物を織って神様に奉納する日でした
神様に着物を奉納して秋の豊作を願ったり、人々の穢れを祓うというものでした。
乙女を「棚機津女」着物を織る機織り機を棚機と呼んだ
棚機津女が水辺につくった機織り機で衣を織り、神様に奉納するという行事
七夕になった理由
棚機が七夕と呼ばれるようになったのは奈良時代と言われています。
乞巧奠(きこうでん)という行事の中で行われました。
徐々に七夕と棚機が同一視されていったという事みたいです。
織姫と彦星の話って織姫は機織りですし
イチャイチャしすぎて天帝が引き離したというエピソードだから
乙女が機織りをして神様に奉納するという行事と似ていたからという事みたいです。
なぜ短冊を飾るの?
中国の乞巧奠(きこうでん)では七夕の夜、婦人たち七本の針の穴に彩の美しい糸を通して、捧げ物を庭に置き、針仕事の上達を祈願した
これが日本の貴族に伝わり、奈良・平安時代の貴族たちの間で「芸事の上達」を願う行事になった。
お供え物として里芋の葉っぱに溜まった夜露を集めた物や墨を摺って「梶(かじ)の葉」に詩を書いたりしたそうです。
紙が貴重な時代、梶の葉は手のひらくらいの大きさがあるためちょうどよかったのだと思います。
江戸時代になると庶民も七夕を楽しむようになり、その頃には紙もたくさん作られていたから短冊を使ったというわけです。
まとめ
ナナとセキでたなばたと読むのは日本の行事と中国の行事が組み合わさった結果
元々は機織りして着物を神様に奉納して豊作を祈る行事だったのが
中国の七夕、捧げ物を庭に吊るして針仕事の上達を祈願した行事が日本では芸事の上達を願う事に変化
変化した結果、捧げ物として梶の葉に詩を書いて奉納していた
これが変化して短冊になり竹に飾られるようになったというわけです。
七夕は棚機と同一視された結果タナバタなんて読みになったというわけです。
ではでは(^ω^)ノシ
この記事もおすすめ