絶対王政というはのどういうモノなのか詳しく説明していこうと思います。
漠然としたイメージとして王様が絶対者として君臨して貴族がいて庶民がいるというイメージしかないのですが。
一体、何時頃に産まれた仕組みでどうして無くなってしまったかしっかり説明していきます。
絶対王政とは?
16~18世紀ごろにヨーロッパで成立した国王による支配体制
主な特徴として
- 官僚制
- 常備軍
- 重商主義政策
この3つの政策があり王様を中心に国を治める。
この時期のヨーロッパは王様にめちゃくちゃ権力が集中していました。
何故、王様に権力が集中したのか?
絶対王政の前は封建社会で国王をトップにして諸侯(日本で言う大名)がいて騎士がいて農奴がいるピラミッド型でした。
- 国王
- 諸侯
- 騎士
- 超えられない壁
- 農奴(庶民)
上から身分が高くて諸侯が領地を治めている政治形態でした。
王様や諸侯が騎士を雇っていた。
そんな封建制度が崩れる原因となったのが戦争です。
十字軍や宗教戦争などの大きな戦争が起こります。
そうなると諸侯が騎士を集めるよりも国王が直接、騎士を集める方が効率が良くなります。
諸侯が騎士を従えるよりも国王が騎士を従える方が大きな力を発揮しやすいし国王が直接、税を集めたほうが大きな戦争に勝つためには都合が良かった。
そのため王様の権力が大きくなってきます。
そのため諸侯の権力が小さくなっていきました。
貨幣経済に切り替わり台頭したブルジョワ
当時は農業経済から貨幣経済に社会が切り替わった時期でヨーロッパの諸侯や騎士の力が落ちている中でお金を稼いで力をつけた人が市民階級として台頭してきます。
市民階級(ブルジョワ)と諸侯の力が同じくらいになりましたが
諸侯もブルジョワも政治に口を出せるような力は無くなってしまったので国王が政治を回していく事になります。
絶対王政の仕組み
官僚制
国王が政治的な決定をすると言っても人手はいる。
そのため官僚を雇う事になります。
その官僚を諸侯と市民階級から選んでいきます。
特にイギリスではその傾向が大きかったみたいです。
市民階級の中でも身分も高くてお金も持っていてる人を対象に官僚を雇っていきました。
イギリスではそういう人をジェントリと呼びました。
そういう人たちの力を借りて政治を行っていきました。
つまり市民階級の人たちが議会の仕事につけるようにしました。
常備軍
封建制度の時は王様や諸侯が軍をもっていました。
その軍を支えるために農奴から年貢を徴収していました。
徴収した作物で騎士にご飯を与えていたという形でした。
しかし、貨幣経済になると騎士階級の力が弱まっていきました。
貨幣経済で作物や土地は褒美にはならずお金を払って騎士を集める必要が出てきました。
常備軍とは国が直接、騎士にお金を払って雇う形になります。
官僚制と常備軍の仕組みがあって絶対王政の仕組みが完成します。
しかし、この仕組みにはとてもお金がかかります。
重商主義政策
農業中心だった経済を貨幣中心の経済に変えるため
お金を稼ぐ商業を推し進める政策です。
市民階級がやっていた商業を国王が応援する政策です。
その政策の一環として植民地の拡大を行った。
こういう背景があってヨーロッパがアジアやアフリカに手を伸ばしていきます。
当時の政策では重商主義=重金政策と言えます。
つまり、外国から金銀財宝を国内に持ってこさせようという政策です。
現代風に言えば外貨獲得ですね。
植民地から金銀を持ってくるという形になりました。
具体例
イギリス
ヘンリー8世のころに、イギリス国教会(プロテスタント)による宗教改革を進め
絶対王政の基礎が築かれた。女王エリザベス1世のときに
スペインの無敵艦隊を破り、海上の覇権をにぎり
1600年東インド会社を設立し、インドを中心にアジアへの植民地進出を進めた。
宗教改革
ヘンリー8世がイギリス国教会の首長になりました。
宗教改革でカトリックからプロテスタント中心の社会になります。
当時のカトリックは信者からお金を集めたり土地を持っていたりしてかなり力がありましたが宗教改革で力を縮小させる。
カトリックに集まっていたお金がプロテスタント、イギリス国教会に集まるようになりました。
その結果、絶対王政に必要な官僚制や常備軍を整える事ができた。
ヘンリー8世の時に絶対王政の基礎ができた。
フランス
30年以上続いた宗教戦争の終了後、ブルボン王朝期に絶対王政が成立した。
ルイ14世のころに、最盛期をむかえた。
ルイ14世と言えば「朕は国家なり」という名言を残しているあの人です。
絶対王政に必要な重商主義の元、植民地からお金を集めてベルサイユ宮殿を建造します。
長くは続かない絶対王政
絶対王政と貨幣経済の下で力をつけた市民階級(ブルジョワ)が政治に対して強い権力を持てるようになっていきます。
イギリスとフランスでは大きな革命があってそこから議会政治の時代に突入していきます。
市民革命との関係性の詳細な解説
市民革命との関係性の詳細な解説
絶対王政の崩壊には、市民革命が重要な役割を果たしました。
市民革命は、16世紀から18世紀のヨーロッパで起こった、社会の変革を求める運動や革命の総称であり、特にイギリスとフランスで顕著な影響を及ぼしました。
ここでは、市民革命がどのようにして絶対王政の終焉に繋がったのか、その詳細を解説します。
1. 市民階級(ブルジョワ)の台頭
絶対王政の時代、商業や産業で富を築いた市民階級(ブルジョワ)は、経済的には大きな力を持っていましたが、政治的にはまだ限られた影響しか持っていませんでした。
しかし、次第に彼らは政治的権利を求めるようになり、絶対王政に対抗する力を蓄えていきました。
特に、イギリスとフランスでの市民革命は、この市民階級の力の増大と密接に関連しています。
2. イギリス革命(1642年-1651年)
イギリス革命は、絶対王政から議会主義への転換を象徴する出来事です。主要な要因として以下の点が挙げられます。
- 国王と議会の対立
チャールズ1世の時代、国王は議会との対立を深めました。チャールズ1世は専制的な政策を推進し、議会の権限を無視することが多かったため、議会と市民階級の間に強い反発が生まれました。 - 内戦と結果
1642年から1651年にかけて、イギリス内戦が勃発しました。議会側(清教徒)と王政側(王党派)の間で戦争が繰り広げられ、最終的に議会側が勝利しました。この結果、1649年にチャールズ1世は処刑され、イギリスは短期間の共和制を経験しました(クロムウェルの独裁政権)。 - 権利の宣言と名誉革命
1660年に王政が復活しますが、その後も議会の権限は強化されました。1688年の名誉革命では、ウィリアム3世とメアリー2世が王位に就き、権利の宣言(Bill of Rights)を通じて議会の権限が確立しました。この過程で、イギリスは立憲君主制へと移行しました。
3. フランス革命(1789年-1799年)
フランス革命は、絶対王政から共和制への大変革をもたらしました。主な要因は以下の通りです。
- 経済的な不満と社会的不平等
フランスは長期にわたる戦争や経済問題によって財政が困窮し、貴族や教会に対する課税が不公平であると感じられていました。第三身分(平民層)が過重な税負担を強いられ、社会的不平等に対する不満が高まりました。 - 1789年の革命の開始
1789年にフランス革命が勃発し、パリでバスティーユ牢獄が襲撃されると、急速に反絶対王政の運動が広がりました。ルイ16世の下で進められた改革は、革命の要求に応えきれず、暴動や政治的混乱が続きました。 - 絶対王政の終焉と共和国の成立
1792年にはフランス王国が廃止され、フランス第一共和制が成立しました。その後、ナポレオン・ボナパルトが登場し、1804年に皇帝として即位するまで、フランスは混乱の時代を迎えました。
4. 市民革命が絶対王政に与えた影響
市民革命は、絶対王政の崩壊に直接的な影響を与えました。以下の点が挙げられます。
- 政治的権利の拡大
市民革命により、平民層や市民階級の政治的権利が拡大し、議会の権限が強化されました。これにより、絶対王政の中央集権的な支配から、より民主的な政治体制へと移行する道が開かれました。 - 社会構造の変革
絶対王政の下で支配的だった貴族や封建制度が崩れ、市民階級が新しい社会の中心となりました。これにより、社会の構造が大きく変わり、新しい経済や政治の仕組みが形成されました。 - 国際的な影響
イギリスやフランスでの市民革命は、他のヨーロッパ諸国にも影響を与え、民主主義や立憲主義の理念が広まるきっかけとなりました。
市民革命は、絶対王政の崩壊を加速させる重要な要因であり、歴史的な転換点を形成しました。
市民階級の台頭とそれに伴う政治的変革が、近代国家の基盤を築いたのです。
まとめ
絶対王政というのは諸侯いわゆる貴族や騎士たちが力を失っていく反面、市民階級という新しい階級の人たちが商売で力をつけてきた。
しかし、まだ政治に口を出せる程の力がないから王様に権力が集中してしまった。
官僚制と常備軍を維持するためにはお金が必要でお金を手に入れるために植民地を拡大していく、
最後に力をつけた市民階級に革命を起こされて絶対王政は滅ぶとまあこんな感じですね。
絶対王政って意外と最近の事なのね、普通に1000年前とか大昔の事かと思った。
実際は封建制度が崩れていく過程で産まれたものだったんですね。
ではでは(^ω^)ノシ
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