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日本三大怨霊といえば?呪術廻戦でも設定であったけど有名な人が多いの?

日本三大怨霊と言えば?と聞かれたら

 

  • 菅原道真(すがわらのみちざね)
  • 平将門(たいらのまさかど)
  • 崇徳天皇(すとくてんのう)

 

この3人があげられます。

実在の人物であり、菅原道真公は学問の神様としても有名

怨霊の基準というのが朝廷に強い影響を与えた人物であるのは面白い

 

 

ちなみに漫画、呪術廻戦で登場した五条悟と乙骨憂太は菅原道真の遠い祖先という設定。

 

 

 

 

菅原道真とは?

「菅原道真は、平安時代の貴族です。彼が生きた時代は845年8月1日から903年3月26日までの期間でした。

道真は後醍醐天皇のもとで右大臣まで昇りつめた人物でしたが、藤原時平の讒言により、昌泰の変によって大宰府に左遷され、そこで没しました。

 

 

道真は詩歌に優れた才能を持ち、優秀な人物であったが、死後は怨霊になったと噂されました。

彼の死後、弟子であった藤原菅根が雷にあたって死亡しましたが、彼は道真の失脚に加担した人物でした。

 

 

また、藤原時平が道真の左遷を追いやった後、急死したことや、この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病などの異変が毎年起こるようになったことから、朝廷では『これは菅原道真が怨霊になって朝廷を祟っているのではないか?』という噂が広がったとされています。

 

 

さらに、道真の大宰府行きを命じた勅書を後醍醐天皇が破棄し、道真の地位を右大臣に戻し、正二位を追贈したことで、道真への崇敬が高まりました。

つまり、左遷を破棄して元の役職に戻して更に地位も送ったというわけだ。

 

 

 

保明親王の子供である慶頼王も5歳で夭折する。

930(延長8)年、御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が亡くなった。

 

これにショックを受けた後醍醐天皇は体調を崩し、その後は崩御した。

 

 

942(天慶5)年、平安京の右京七条二坊十三町に住む多治比文子(たじひのあやこ)に、道真の霊が乗り移る。文子に憑依した道真は自分を祀るように強く求めたという。

平安京内の右近馬場の地に北野天満宮を創建することを容認する。

 

北野天満宮で菅原道真を学問の神として祀りました。

それからは祟りもなくなりました。

 

 

その後も、道真を学問の神として祀る神社が全国に広まり、現在では1万2000社にも及ぶそうです。

 

 

 

 

 

平将門とは?どんな人物?

平将門は平将門の乱を起こした人物。

平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期の903年(延喜3年)生まれの武将で、桓武天皇の血筋を引く5世です。

平将門の乱を起こし新皇を名乗った人物

 

平将門の乱は下総北部(現在の千葉県・茨城県)を支配した豪族であり、朝廷に仕える武士だった。

承平5(935)年、将門公は「我こそが東国の天皇だ!」という事で新皇を名乗った。

 

 

平将門の乱の原因は939年(天慶2年)11月。 「藤原玄明」(ふじわらのはるあき)が、税金の不払い問題等で常陸国司(ひたちこくし)と対立し、将門に助けを求めます。

常陸国司の求めに応じず藤原玄明の引き渡さなかった事で平将門の乱が起こる

 

結果として平将門公は「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと:別名・俵藤太[たわらのとうた])に討たれ討ち死に

 

その首は平安京の七条河原に運ばれ、さらし首の刑に

平将門の首は何ヶ月も腐る様子がなく、目を見開いたまま夜になると「斬られた私の胴体はどこにあるのか。持って来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫んでいたそうです。

歌人の「藤六左近」(とうろくさこん)がその様子を歌に詠むと平将門の首はケタケタと笑って関東の方角に飛び去ったという。

 

 

力尽きてその首が落ちた場所が現在の首塚(東京都千代田区大手町)になります。

 

 

 

 

現在は平将門の首塚、胴塚などあちこちに祀られている。

  1. 平将門公の鎧が眠るという「鎧神社」
  2. 平将門調伏のための神社と伝わる「水稲荷神社」
  3. 平将門の足が祀られた?という風説が残る「筑土八幡神社」
  4. 平将門公が神として祀られる「神田明神」
  5. 日本最大のビジネス街のど真ん中にある「将門の首塚」
  6. 平将門公の兜が埋まると伝わる「兜神社」
  7. 平将門公の一族が今も宮司を務めるという「鳥越神社」

 

筆者の感想としては怨霊としてはかなり強いというか日本三大怨霊にふさわしいエピーソードですね

 

 

 

崇徳天皇とは?どんな人?

崇徳天皇は1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)

天皇、皇室の人間でありながら島流しにされ、讃岐国(現在の香川県)で過ごしたというエピソードのある人物

 

 

崇徳天皇は出自から不明点の多い人物だと言われています。

祖父は院政を始めた事で知られる白河天皇(しらかわてんのう)であり、影響力が強く

子供・孫世代にも影響力が及んだ

 

 

崇徳天皇は白河天皇の子供ではないか(出自不明)

 

 

 

という噂があり、父親の鳥羽上皇(とばじょうこう)から疎まれていた。

 

天皇に即位してからも兄弟の近衛天皇に譲位を迫られ、譲位

近衛天皇の死後、次代の天皇に自分の息子を推薦していたが

 

「近衛天皇を呪い殺した」という噂がたち激怒した鳥羽上皇は弟の雅仁親王(のちの後白河天皇)を即位させた

 

崇徳上皇と違って自分が寵愛した女性との子供だったため自分の胤である事を確信していたというのもあります。

 

その後、鳥羽法皇(上皇が出家したので法皇)が崩御

 

崇徳上皇はこの時、鳥羽法皇の臨終に立ち会う事も遺体に対面する事も許されなかった。

 

「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」

 

という噂を流されて摂関家の邸宅まで軍で制圧されます。

 

つまり鳥羽上皇が崩御したのをきっかけに最高権力者に返り咲こうとしているという噂を立てられ

家を制圧されてしまうという。

 

 

あらすじだけを見ると不遇ですね

 

そんな崇徳上皇ですが無事に脱出しており、側近たちと共に戦います。

これが保元の乱

 

 

保元の乱では平清盛と源頼朝・義経らの父である源義朝が後白河天皇について活躍しました。

保元の乱は後白河天皇の勝利で終わり

 

崇徳上皇は讃岐へ配流されます。

 

配流は400年ぶりで前回が奈良時代の「恵美押勝の乱」で廃位された淳仁天皇だったそうです。

 

 

保元物語では崇徳上皇は反省と戦死者の供養の証として五部大乗経といわれる五つのお経を写経して都に送りました。

しかし、後白河天皇は「なんか呪われそう」と奉納を拒否

 

 

そのまま送り返されてしまいます。

 

 

一説には血文字で写経していたという話もあります。

・・・・それは怖い

 

 

 

写経が送り返された事に激怒した崇徳上皇は舌を噛み切り

その血で国を呪う事を記し、亡くなったと言われています。

 

 

 「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

 「この経を魔道に回向す」

 

 

と、書いたそうです。

 

 

保元物語では崇徳上皇は天狗になったと記されています。

逆に今鏡では崇徳上皇が恨みをもって死んだという話は記されていません。

 

700年も続いた祟り?

 

崇徳上皇は朝廷で喪に服す事もなく、国司によって葬礼が行われただけ

保元の乱で配流された他の人たちは許されたり、帰京しているなかでこの扱いです。

徹底的に崇徳上皇は不遇な扱いを受けています。

 

 

 

その後は朝廷に様々な不幸が続きます

 

  • 1176年に後白河法皇や摂関家の近親者も相次いで亡くなります。
  • 1177年に延暦寺の僧兵による強訴
  • 安元の大火で平安京の三分の一が焼失
  • 鹿ケ谷の陰謀で平氏に反発していた一派が処罰される

 

この辺りから朝廷は崇徳上皇の祟りを意識し始めます。

 

なぜ、このような事が分かっているのかと言えば貴族の日記などに

 

「崇徳院の怨霊の仕業ではないか」

 

という風に綴られているからですね。

 

 

崇徳上皇が崩御してから十年以上後の事なのである意味で言いがかりな気がしますが

 

 

精神的に追い詰められた後白河法皇は怨霊を鎮めるために崇徳上皇の罪人扱いを解き、同時に配流され、亡くなって怨霊とされた藤原頼長も正一位太政大臣が追贈されています。

 

崇徳上皇にも讃岐院とされた呼び名を崇徳院と改めた

 

御霊を鎮めるために1184年、保元の乱の古戦場に「崇徳院廟」が設置

 

 

しかし、その後の時代は武士が台頭し承久の乱後は幕府に実権を握られてしまいます。

そこから鎌倉時代、戦国時代、江戸時代と武士が実権を握り続けた。

 

明治時代になった時に讃岐に勅使を遣わして崇徳院の御霊を京都へ帰還させ、白峰神宮を創建しています。

昭和天皇は崇徳院が崩御して800年目にあたる昭和39年(1964年)に香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。

 

 

中世以降の創作物では崇徳上皇といえば怨霊というイメージで描かれています。

つまり、怨霊として恐れられている期間は菅原道真や平将門よりも長いと言えます。

 

ちなみに崇徳院が祀られている京都の安井金比羅宮は

 

 

「縁切りの神社」

 

として有名で神社に奉納される絵馬には

「〇〇と縁が切れますように」なんて書かれているのだとか

 

そんな崇徳院ですが四国の守護神という側面もあるのだそうです。

 

 

 

まとめ

日本三大怨霊と言われた人物ですが具体的にいうと朝廷を祟った怨霊ですね。

 

強烈なエピソードが多いというか平将門だけベクトルが違う気がするけど

菅原道真に関しても自分を失脚した人物を狙い撃ちにしていた感じがありますが

崇徳天皇に関してはかなり長い期間、恐れられている。

 

 

というか崇徳天皇だけ風評被害じゃないと思ってしまう現代っ子な筆者がいます。

 

共通点としては全員が何らかの形で祀られている事ですね。

怨霊を祀り神にするというのは日本独特な感じがします。

 

 

ではでは(^ω^)ノシ

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