男らしく女らしくと言われると男女平等の時代にそぐわないとか
性的少数者はどうするんだという話にはなると思うけど。
男らしさとか女らしさは必要だ。
解剖学には明るくないけど男らしさとか女らしさというのは体の機能を活かす事だと思う。
筋肉にしたって男性ホルモンの量で筋肉がつきやすいとかつきにくいなんてのは普通にある。
過度な押し付けが良くないだけで男らしさや女らしさは必要。
何をもって男らしいとするか女らしいとするかは人、それぞれであり明確な基準はない。
【らしさ】というのは自分で作っていくもの。
趣味や性格は【らしさ】とは関係ない
世の中には多くの女性が好きな趣味、多くの男性が好きな趣味があるけど。
男らしい趣味や女らしい趣味というのはない。
例えば男性であってもヒラヒラのレースやスカートを着るのが好きであっても女々しいとか男らしくないという事ではない。
趣味や性格、性癖などは関係ない。
そこを否定するのは多様性の否定だ。
髪型や服装、所作では【らしさ】を測れない。
女々しいとか雄々しいとか言われたりするけど
それは他人から見たらであって自分自身の男らしさ、女らしさとは関係ない。
必要なのは自認のみ
自分は男である、自分は女であるという意識こそが男らしさ、女らしさの源泉である考えます。
この性自認がズレてしまうのが性的少数者というわけですね。
生まれつきなのか後転的なものかは人それぞれですが
そういう人たちがいるっていうのは知っておく必要があるけど
自分の性別に対してポジティブである事は大切。
性自認があやふやだと個人的な意見ではあるけど精神的に不安定な気がする。
どうしたって体と心はリンクしてしまうわけだから
体と心がズレてしまうのは生きづらい。
それぞれの判断基準は性別から
これも筆者の考えでデータとか研究があるわけじゃない。
ただ、人間というのは性自認を基準にして行動しているように思う。
本能を基準にしているというか。
多様性を受け入れようとか言っても基本的に本能で自分は男である事を受け入れるわけだ。
「男だからこうしなさい」「女だからこうしなさい」と言われりゃ反発もしたくなるけど
本能を軸に環境や礼儀作法などで性格や判断基準が作られる。
男らしさ、女らしいさというのは家族の背中を見て育つもの。
教えて育つもんじゃない。
他人が指導して身につくもんじゃない
他人が指導したからって男らしさ、女らしさが産まれるわけじゃない。
もちろん、マナーや作法を守るとなんとなく美しく写るから男らしいとか女らしいと感じるかもしれないけど
自分は男(女)であるという自認を軸に人格形成された結果、滲み出るのが男らしさ・女らしさではないだろうか?
だから人によって個人差はある。
ステレオタイプというのはあるんだろうけど
それは世代を重ねる毎に作られたもの。
もちろん、男だから出来て女だから出来ないとか女だから出来て男は出来ない社会の仕組みがあるのは良くない事だし
固定概念みたいなのは、時代によって変えなきゃいけない。
まとめ
筆者は男らしさ、女らしさというのは自身の性自認を軸に環境や教育で作られるものだと思います。
男らしさ、女らしさという概念は必要。
何故ならその方が精神も安定する。
男だから、女だからこうあるべきという押し付けが悪であり
男らしさや女らしさの基準は常に個人の中で作っていくものなんじゃなかろうか?
性的少数者ってその辺りが曖昧な状態で育ったのかもしれない。
最近、男らしさとか女らしさの否定ばかりが話題になるけど、体と心が一致してないと辛くなる。
結局、心は体とリンクしている。
男であるとか女であるという自意識は幼いうちからあった方がいいように思う。
学者じゃないから分からんけど。
ではでは(^ω^)ノシ
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