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日記

多様性という言葉が胡散臭いのは弱者に寄り添うフリをして利益を貪ろうとするからである。

多様性という言葉にキナ臭さというか胡散臭さを感じるのは過剰な配慮、少数派が多数派を支配しようとしているように感じる。

少なくとも@kesuikemayakuはそう思っています。

多様性を認めるために配慮しなければならない!

 

 

 

こう主張する人がいるから胡散臭い。
少数派に配慮しろ!多様性が生まれる時代だからやり方を変えなければならない。

少数派は差別されている。
もっと多数派は少数派を認めるべきだ!

 

 

 

そういう主張は一見、頷いてしまいそうになるけど違う。

日本で言えば多数派である日本人が自分の立ち位置を誰かに遠慮したり配慮したりする必要はない。

 

 

 

全く持って微塵もない。
先日、Twitterで宗教上の問題で給食を食べれない子がいる配慮すべきだ!

宗教によっては豚肉が食べれないとか牛肉が食えないという話。

 

 

 

宗教上の理由ならば仕方ないなんて事はなく。
それなら豚肉、牛肉を抜いてよそってもらえばいい。

 

 

 

もしくはお弁当を持参すべきだ。

 

 

 

多数派である日本の子供たちが宗教上の理由で豚肉が食えないとか牛肉が食えない子供に配慮する必要はない。

 

 

ワガママを言ってるのは少数派なんだから。

 

 

 

配慮する、立ち位置を変えるというのは軋轢を生む

何かを遠慮したり配慮したりするのほ軋轢を生む。

誰かのために我慢する必要は本当にあるのか?そう問われたら明確にNOだ!

 

 

 

いろいろな人がいていろいろな国があって
千差万別、特殊な体質だったりアレルギーだったり、持病を持ってたり、性癖が歪んでたり性格が歪んでたり、ジェンダーが特殊だったりするけど。

多数派は少数派に配慮したりする必要はない。

 

 

ただ理解すべき。

 

 

 

理解が大事

お互いを理解する事が重要というか多様性というのは認めること、法律に違反してなければ許す事です。

例え一般常識からかけ離れていたとしても法律違反でなければオッケー。

女装しようが男装の麗人であろうがLGBTだろうが法律違反してなければ問題ない。

 

 

 

そこにいる事を理解して認める事。
お互いが心地良い距離感を確保し、一緒に生活するのが多様性というものではなかろうか?

どうしても合わない人や考え方があると思いますがそういう時は距離を取る。

 

 

 

多数派が少数派を攻撃せず、少数派が多数派の権利を侵害しない。

お互いが相手のことを何となく認めてあげる。
それが心地良い多様性というやつではないだろうか?

 

 

 

 

 

分かり合えるを押し付けられる。

多様性を語る人が胡散臭いのはあらゆる民族、あらゆる宗教の人とでも分かり合える。

みたいな主張があってそのために配慮する必要がある。

みたいな話になる、そこからポリティカルコレクトネスにつながる。

 

 

 

 

 

 

政治的・社会的な公正さ、中立のようなに語りつつ少数派の権利を拡大しようとする。

川崎市でヘイト禁止条例案が可決されたそうですが

あからさまに多様性を語る人たちが少数派を優遇し、多数派の行動を制限しています。

いろんな人たちがいる中で都合の悪い言論を封殺する悪法になります。

 

 

 

多様性を認めると言いながら真逆。

 

 

 

多様な意見を認める

ポリコレや差別を許さない!と主張する人たちは根本的にズレているというか何というか。

多様性というのは基本的に言論闘争、主義主張をぶつけ合える環境を言います。

 

 

 

ゴリゴリ議論して否定して罵り合って、たまに感心したりびっくりしたり自分の考えと他人の考えを理解しあえる事が多様性を認める事。

その議論を封じようとするから胡散臭い。

 

 

 

多様性というのを分かりやすく@kesuikemayaku的に解釈してみました。

例えるなら目玉焼きは醤油派、ソース派?もしくは塩、胡椒という方もいる。

議論したりすれば平行線になるかもしれない。
でも、そういう食べ方がある事を知るのは有意義な話。

 

 

 

みたいな話です。

 

 

 

 

目玉焼きという社会には醤油派がいてソース派がいるマヨネーズをかける人だっている。

もしかしたら豆板醤やはちみつをかける人がいるかもしれない。

 

 

 

多様性を胡散臭く語る人は醤油派やソース派が多い食堂で

テーブルに豆板醤を置けと主張する人。

食堂を利用している1万人の中で豆板醤をかけるのは1人。

 

 

 

 

1人のために全てのテーブルに豆板醤が置かれる。

ちょっとテーブルが狭くなってしまう。

9999人にとってほんの少し使いづらくなる。

 

 

一回ならいいけど、他の人も独自の調味料をテーブルに置きたがるとどうなるのか?

調味料でテーブルが埋まってしまう。

 

 

殆どの人が醤油、ソースを目玉焼きにかけるのにテーブルの上は使わない調味料でいっぱい

多様性を認めるというのは目玉焼きに豆板醤やハチミツをかける人間がいたとしてもドン引きしない事。

味覚的(感覚的)にあり得ないと思ってもそういう人がいる事を許容する事が大事。

 

 

 

まとめ

多様性を語る人が胡散臭いのは少数派の権利を優遇するから、目玉焼きの話で言えば食堂のテーブルに豆板醤を用意するような話です。

テーブル(社会)の上は有限で全ての人が満足できないかもしれない。

 

 

 

ただ、自分で目玉焼きにかける調味料を持ってくるのは自由

単なる少数派優遇は社会を混乱させる原因ではなかろうか?

 

ではでは(^ω^)ノシ

 

 

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